進学や就職活動、転職などでは機会あるたびに自己アピールをしなければなりません。しかし、いざ書こうとすると、自分が一番わかっているはずの自分がよくわからない、こうありたい、こんな風にアピールしたいと思う自分と現実の自分のギャップに戸惑い、手が止まってしまった経験もあるでしょう。
恋愛や結婚では、理想の恋愛をしている自分と現状の自分のギャップ、相手が求める自分とこうありたい自分の違い、予期せぬ出来事に今まで知らなかった自分を発見することもあるでしょう。恋愛は相手との関係性が大事だと思っていたのに、いつの間にか自分とは何なのか、自分はこれからどうしたいのかといった複数の自分がせめぎあっているのを感じたりもします。
知ろうとすればするほど混乱する自分という存在、それでも知りたいと果敢に挑む人のために、自分探しの心がけをまとめてみました。
自分を知るのは何のため?
自分には、自分の知らない自分も含まれる-ジョハリの窓
「ジョハリの窓」をご存知でしょうか。対人コミュニケーションのトレーニングにおいてよく使用されているモデルなので、どこかで出会ったことがある人もいらっしゃるでしょう。
ジョハリの窓とは、次の4象限の図で示されます。
Ⅰ開放の窓「公開された自己」
Ⅱ盲点の窓「自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己」
Ⅲ秘密の窓「隠された自己」
Ⅳ未知の窓「誰からもまだ知られていない自己」
Ⅰはいわばオフィシャルな自分で、自分で考えている姿と他人に見えている姿が一致している状態を指します。ここの領域が大きい人は、対人関係において誤解のない、円滑なコミュニケーションができるようになります。
しかし、あとの3つ割合が大きいからこそ、自分を知ることは難しいのです。
Ⅱは周りから「あの人は自分では気づいていないけれど〇〇だね」などと言われている部分です。この盲点の窓について知るには、周囲の人からそれを伝え返してもらう、つまりフィードバックしてもらうことが必要です。
Ⅲは他人には見せない領域です。秘密が多いと、他人とのコミュニケーションも不自然になりがちです。
Ⅳは自分も周りの人も気づいていない領域です。何年自分を生きてきても、誰にでもこの領域はあります。この未知の部分を恐ろしいと感じるか、おもしろいと感じるかは人それぞれですが、いずれにせよ、いろいろな可能性を秘めた領域であるのです。
このことからわかるように、自分や周りの人がわかったと思っている自分はほんの一部です。そして盲点だったり未知だったりした自分を発見し、それが私らしさに変わることもあるのです。自分という存在は、変化する存在であることをまず押さえましょう。
それでも自分を知るのは何のため-今の自分を乗り越える為
なぜ自分を知りたいのかと問われれば、進学や就活で自己アピールを書かねばならないから、新しい学校や職場で自己紹介をしなければならないから、合コンに行くので自分はどんな恋愛がしたいのか今一度考えるためなど、具体的で現実的な理由があることでしょう。
もし、過去にも同じような理由で自己理解を深めようとした人がいれば、その時のエントリーシートや志望理由書などを引っ張り出して眺めてみましょう。今の自分は、過去の自分に共感できるでしょうか。おそらく、今漠然と考えていることと過去の自分は多かれ少なかれズレてしまっていないでしょうか。
今考えるとなぜこの学校を志望したのかわからない。
学生時代に書いた自己アピールが青臭くて恥ずかしい。
今の自分なら絶対つきあわないタイプの人となぜつきあったのかわからない。
なぜこの人と結婚したのか思い出せない。
そんな感想を抱く人も多いでしょうが、それは言ってみれば当然のことなのです。なぜなら、繰り返し述べている通り、人間は日々変化するのです。
自分を知るとは、今の状態を知ることでしかありません。「本当の自分」を探そうとしても、過去と現在と未来では異なる自分がいるのです。
自分のいいところを見つけても、それを維持したり伸ばしたりしようとしなければ、他の人にはその良さが見えなかったり、未来には消えているかもしれません。嫌なところがわかっても、改善しようとしなければ、それが自他ともに認めるオフィシャルな自分になっていくかもしれません。
自分を知るということは、今の自分を乗り越えるために、いいところも嫌なところも含めて今の自分を受け止めることでしかないのです。
自分を知ることが困難な理由とは
育ててもらった自分となりたい自分のギャップ
今の自分はすべて自分自身の選択によるものかと言えばそうではなく、幼少期に一番身近な他者である両親からの刷り込みが大半を占めます。赤ちゃんは生まれる家庭や名前を選べませんし、食べるものや着るもの、人づきあい、仕事や趣味など様々なことに対する考え方に至るまで、両親からの多大な影響を受けています。
思春期になるとその影響下から脱して自分らしさを探し始める時期に差し掛かり、これまでの自分から脱皮しようともがいた経験は誰でも持っていることでしょう。
それは思春期を通り越しても、ライフステージの重要な時期に仕事や働き方について考えたり、結婚や出産、子育ての方法など様々なことを考える上で、意識的にせよ無意識的せよ参照されます。それほど大きな影響力を持っているのです。
育ててもらった自分となりたい自分がうまく一致している場合は違和感を抱くこともありませんが、多くの人はギャップを感じて葛藤します。また、パートナーができれば、その人の背景にも同じような家族からの影響があります。それらをすり合わせることは大変ですが、多くの人にとってそれが自分の背景をふりかえり、自分を知るための機会となるのです。
期待に応えようと必死な自分とできない自分のギャップ
両親や近親者だけではなく、先生や上司などから向けられた期待は、いつのまにか「こういう自分であらねばならない」という呪縛になっている可能性があります。期待されている自分と、それにうまく応えられない自分のギャップで、混乱してしまうこともあるでしょう。
期待されている自分と、自分が望む自分とを整理してみるだけでも、自己理解を深める重要な手掛かりになるでしょう。
過去の不幸な出来事や失敗に対する向き合い方
「本当の自分」神話を乗り越えられない
現状に不満がある場合、それを過去の不幸な出来事のせいにして嘆いてしまいがちです。特に、幼少期の自分の責任ではどうすることもできない出来事を「あの出来事さえなかったら」、「もし〇〇だったら、今の自分はもっと違ったはず」と引きずってしまっている人も少なくないでしょう。
それは、「あるべき本当の自分」は他にいると考え、現状の自分をありのまま見つめることを難しくします。さらに、変えられない自分の運命に自分を閉じ込めてしまっている可能性があります。
例えば、「自分が結婚できないのは、不幸な両親の結婚生活を目の当たりにしてきたからだ」と考える人もいれば、「両親の結婚生活は不幸だったが、私は幸せな結婚を選ぶことができる」と考えて幸せになるための行動をとることができる人もいます。
両者の違いは、自分の力では変えられない出来事を受け入れることができるか否かにあります。変えられない過去に向き合う姿勢によって、現状の自分の捉え方も変わります。
今の自分は過去のベストな選択の結果としてある
変えられない出来事だけではなく、自分で判断を下してきたことに対しても「あの時もっとこうすれば、今の自分はもっと幸せだったに違いない」、「あの時、別の道を選んでいればよかったのに」とくよくよ考えてしまうこともあるでしょう。これも、今の自分は「あるべき自分ではない」と自分を正しく見つめるのを妨げる要因になります。
認知科学者で、脳科学の分野からコーチングや人材育成に取り組む苫米地英人さんは、様々な著作の中で「今の自分は過去のベストな結果の選択としてある」と認識することの重要性を説いています。
苫米地さんは過去に選択肢が色々あったとしても、今の暮らし、今の仕事、今の収入は過去にベストな選択をした結果であると言います。現状に不満があったとしても、ちゃんと今生きて仕事や生活ができていることを肯定的に受け止めることで、現状や未来に対する姿勢も変わってきます。
そして、そのような姿勢があれば、たとえ今日失敗したとしても、それはベストな未来のための必要な失敗であったと捉えることができるようになるのです。
整理-今の自分の現在地を知るために
自分探しが難しい理由をたくさん挙げてみましたが、では現在の自分を把握するためにできることを整理してみましょう。
「確固たる自分」という考え方を手放す
人生の重要なターニングポイントで「あなたは何者だ」と問われれば、できれば「私とはこういう者だ」と確固たる自分を提示したいと思うものです。しかし、本当の、確固たる自分がいるという思い込みをあえて手放してみましょう。
今なりたいものと未来になりたいものは変わってもいい、あるべき自分が言いそうなことではなく、今の私の今の気持ちを伝えればよい、そう考えると履歴書やエントリーシートも楽に取り組めるようになるはずです。
過去と現状の自分を受け入れる
自分の責任や力が及ばない過去の出来事や、過去の選択に対する後悔の念は程度の差はあれ誰にでもあるものです。それは、「過去の出来事や失敗のせいで、今の自分に満足できないのだ」と現状の自分を否定することにもつながってしまいます。
過去の事実は変えられません。「もし…だったら」という仮定の考えをやめ、起こったことは全て事実として受け止めましょう。
過去の自分がベストな選択をし続けた結果、ベストな状態の自分であると考え、今後、今の自分を乗り越えていくことに集中しましょう。
まとめ
自分について一番詳しいのは自分であり、なんとなく確固とした自分という存在があるようなイメージを多くの人は持っています。しかしジョハリの窓で見たように、自分や周りがわかっている自分とはほんの一部です。そのことを受け入れることで、もしかすると新たな自分発見につながるかもしれません。